ULOS Questions

生きるを問い続ける。

止まらず、悩まず。
ありのままの時間をかさねて、
生きていく。

-

還暦、リスタート

「若いころは自分の還暦なんて想像もつかなくて、小さなめし屋でもやれていれば良いかなと思っていた」

インタビューで、こう語った吉川晃司。

しかし、実際に還暦となると、まだまだやりたいこと、やるべきことが、いろいろとありすぎたようだ。
「幸いにして、身体もまだまだ動きますからね。心臓の手術もしたけど、そのおかげで、むしろ前よりも息が上がらなくなった。心拍数をマックスまで上げた状態の中で筋トレをする『HIIT』というトレーニング法を採り入れたのも大きい。

ミック・ジャガーも心臓の手術を経て、80歳を超えてもステージで素晴らしいパフォーマンスをしていますからね。そう考えると、まだ60歳、まだ還暦なんです。

ただ一方で、デヴィッド・ボウイが69歳の若さで亡くなったときは愕然とした。自分の周囲、お世話になった方々の中にも、志半ばにして逝ってしまった人は少なくない。特にここ数年は、それをひしひしと感じるんです。コンサートツアーで地方へ行くときは、必ず墓参りをするようにしていたのですが、最近は間に合わなくなってきていて……。

だから正直、自分はあと何回ツアーをできるんだろうとか、あと何枚アルバムを出せるんだろうとか、やっぱり考えるべきで。そう思うと、いまやれること、やりたいことを目の前にして、迷っている時間はもったいないんです。成功するか失敗するか、ファンの方に喜んでもらえるかどうかはわからないが、やってみてダメだったら、そのときに反省すればいいじゃないかと。迷った挙句に結局、やらぬまま後悔だけが残るのは嫌ですから」

音楽の世界以外にも、吉川を奮い立たせる存在がいる。
「たとえば、作家の北方謙三さん。あの方は『三国志』『水滸伝』などを書いてこられて、そこからさらに『史記』にも挑まれた。ずっと読ませていただいていますけど、文章からなかなか『老い』というものを感じないんです。そんな北方さんの姿からは『お前もラクなことをするなよ』と言われているような気がします。そういう人が先を歩いているというのは、自分も引っ張ってもらっているような感じで、心強いですね」

還暦のタイミングでの新しいチャレンジとして、大きな話題になっているもののひとつが、同年・同郷の奥田民生と結成したユニット「Ooochie Koochie(オーチーコーチー)」だ。2025年の後半は、このユニットでのライブツアーが柱となっている。
「この企画だって、うまくいくかどうかはわからなかったけど、やってみようという機運が盛り上がってきて。じゃあお互いに『広島への恩返し』をテーマにして、いっちょやろうかと。

奥田くんと組むにあたっては、あらためて音楽理論を一から勉強し直したんです。もしかしたら、音楽を始めて以来、この1年くらいが、いちばん勉強したかもしれない(笑)。もともと、僕は感覚的に(曲を)作ってきたほうだったから、今回の学びは、いろいろと新鮮でした。これから急に、名曲をどんどん生み出していくかもしれませんよ(笑)」

それにしても、この2人のユニットなど、誰が想像し得ただろうか。
「組んでみて、あらためて感じましたけど、僕らはやっぱり、何から何まで違うんですよ。同じ時期に、同じような場所で生まれたのに、音楽についての考え方、自分の中で大事にしているポイントなど、こんなに違うんだな……って、感慨深かった。

なので、そんな2人が1枚のアルバムを作るのは大変でしたけど、刺激的な作業だったし、楽しくもあったのかな。それこそ、還暦だったから作れたんじゃないですか?たぶん、40代とかでも、まだできなかった。良い意味で力が抜けてきたし(笑)、郷里への思いも年々、深くなっている。いまがまさに、最高のタイミングだったんでしょう。『遠回りが近道』じゃないけど、お互いが自分の信じた音楽をずっとやり続けてきたからこそ、こうやって組めたのかなと思っています」

人生観の転換点

ここまでの人生、傍から見ているだけでも「波乱万丈」な吉川晃司の歩みだが、その人生観に最も大きな影響を与えたのは、やはり2011年の東日本大震災だったという。
「あまりの衝撃に、言葉がなかった。でも、そんな中で、自分に何ができるだろうかと考えて、現地へ行ってみようと思ったんです。ただ、その気持ちだけで行っても、きっと何の役にも立たない。それどころか、邪魔になってしまう可能性もある。

たまたま、デビュー25周年のときの『無人島』企画でアドバイザーとしてお世話になった方が、災害ボランティアのNPOをされていて、宮城県の石巻でのボランティア活動の準備をしていたことがわかった。ちょうど人員も足りていなかったので、そこに名乗りを上げました。

現地では、軽トラを使っての搬送作業だったり、自転車のパンク修理、瓦礫の撤去などをやっていましたけど、日々感じていたのは、どうしようもない『無力感』でした。それからもうひとつは、『物欲』がなくなりました。どんなに大事にしていても、『形』のあるものは必ず壊れる。もちろん、だからと言ってモノを大事にしなくなったわけじゃないけど、執着はなくなりました。執着するなら、自分の知恵と体力がいい。勉強や経験で得た知識と、鍛えた身体は、命ある限り奪われませんから。だから、それまで以上に『知恵と体力』にはこだわるようになりましたね。

いろいろな方と現地で出会いました。骨董品店をやっていたというおばあちゃんとは、売り物だった壺がひとつでも無事に残っていないか、一緒に探した。でも、そもそも店のあった場所がわからない。『このへんだと思う』と言われて、そのあたりを探したけど、実は、そこは本当に店のあった場所からは1kmくらい離れていた。周りにランドマークがないと、人間って自分の住んでいた場所さえわからなくなる。これは衝撃的でした。

この惨状を目の当たりにしても、何もできないのだろうか。そのときは考えてもなかなか次にやるべきことが浮かんでこなかったんですが、経済面での『復興支援』という形なら、僕のようなエンターテイナーの立場でも、具体的な力になれるかもしれないと気づいて。それで着手したのが、COMPLEX再結成による『日本一心』チャリティーライブの開催でした。

初日のライブが始まる直前、ライティングの具合で、天井のあたりが、たまたま東北の瓦礫のように見えたんです。焦って一瞬、うろたえたんですけど、もう1曲目の『BE MY BABY』のイントロが始まってるから、ステージに向かって歩き出さなくちゃいけない。いまでも『あれは何だったんだろう?』と、ときどき思い出します」
2011年の『日本一心』チャリティーライブは文字通り、日本中からたくさんの賛同者を得て、多くの義援金も集められた。そして2024年にも再び、能登半島地震被災者支援として、ライブが開催されたことは記憶に新しい。

刻まれた、人生の彩り

東日本大震災の後も、日本では大きな災害や、異常気象が続いている。また、世界規模でもコロナ禍の問題などがあり、誰もが強いストレスを抱えながら生きていかなければならない時代になっている感がある。
「これから、もっと大変な時期が来ることを覚悟しておくべきだと思う。『栄枯盛衰』の論理で言えば、日本はなかなか厳しいですよ。『栄』の後の『枯』であり、『盛』の後の『衰』の時代ですから……。逆に自分たちは恩恵を受けた部分もあるから、本当は『負の遺産』みたいなものを次の世代に残したくない。だって、それはカッコ悪いでしょう」

第一線でステージに立ち続け、その「生き様」を見せていく。隠すものなどはない。なぜなら、刻まれるシワもまた、自らが辿ってきた「歴史」の証明であり、人生の彩りだから。
「クリント・イーストウッドやリーアム・ニーソン。ミュージシャンなら、ミック・ジャガーやキース・リチャーズ……。シワにも、それぞれの『生き様』が出ていますよね。

よく白髪のことを言われたりもするけど、染めようとは思わない。シワにしても、最近は写真のレタッチ技術が上がっていて、加工で消したりもできるでしょ?でも、僕から言わせれば、それは自分の歴史を消すようなもの。もちろん、自分でも、ちょっと嫌なところにシワができたな……ということもあるけど、それも含めて、顔には『生き様』が出るものだと思っている。ありのままを見せていきたいし、それがいつまでできるのか、というのも僕の中ではひとつの挑戦なんです。

これからも、自分で納得のいく年齢のかさね方をしていきたいですね。そして、そのままのシンプルな姿を、いつでも見せられる自分でありたいです」

8月18日(月)の朝日新聞朝刊に掲載された
「吉川晃司×UL・OS 迷路広告」のダウンロードはこちらから。

※大きめの紙に印刷してお楽しみください(A3以上推奨)