ULOS Questions

生きるを問い続ける。

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生誕1,000日
「無人島」や「音楽」には
運命的に惹かれていた!?

生誕1,000日前後といえば、おおよそ2歳から3歳にかけて。さすがに明確な記憶は残っていないというが、なぜか思い出す「音楽」がある。
「あのころ、テレビで無人島を舞台にした人形劇があったんですよ。有名な主題歌があって、それはみんな知ってると思うんだけど、よく覚えていて。番組自体の内容より、主題歌が印象に残っています。あと、記憶違いじゃなければ、アニメでもそういうのがあった。これも主題歌のフレーズだけはよく覚えています。2曲とも楽しいリズムの、ダンサブルな曲でね。無意識に惹かれていたのかな」

これらの番組の主題歌は、まだモノクロ放送がメインだった時代のテレビ番組を支えた巨匠たちが作曲したものだった。だから耳に残った、ということもあるだろうが、いずれの番組も「無人島」が舞台だったというのが面白い。雑多な曲が次々と流れてくるテレビという「箱」の中から、吉川晃司の感性は、この2曲を選び取っていたのだ。
「そのころの自分が歌っているのを親が録音していて、後でけっこう聞かされましたよ」
「無人島」と聞いて、ピンときた人も多いだろう。吉川は2009年、デビュー25周年の企画の一環として、自らの提案で、フィリピンの無人島で10日間にわたって生活するというチャレンジを行った。また、その後も、ケニアのサバンナの中での野宿生活という企画にも挑んでいる。
「幼いころの自分には、無人島での生活というものが、何か夢とか憧れの象徴みたいに思えていたのかもしれませんね。本能の部分を刺激されて、胸を躍らせていたんでしょう。だから当時、テレビ局から『25周年でやりたいことは?』と聞かれて『無人島生活』と言っちゃったんでしょうけど(笑)、まさか現実になるとは……。

無人島って、椰子の木が生えていて、のんびりと釣りをして……みたいにイメージしているぶんには楽しいですけど、実際に行ってみたら地獄でした。何度も死ぬかと思いました。僕の中では、自分のサバイバル能力というのがどれほどのものか、この機会に確かめようとしていたんです。自分の持っている知恵と技がどの程度、役に立つのかと。でも、その期待は見事に裏切られました。

ただ、そこで自覚できたのが良かったです。いまの世の中、何が起こるかわからない。僕が無人島へ行ったころよりも確実に、『備えておく』ということは必要になっている。だから、やれる限りのことはやっています。僕は馬には乗れるし、近年は弓術も習っている。いざというときには、おそらく鹿くらいなら、なんとかなるんじゃないかと(笑)」

生誕5,000日
水泳との出会い
芽生えた「反骨精神」

生誕5,000日。13~14歳。中学受験に合格して、中・高一貫教育の学校に入学した吉川少年は、当初はサッカーをやるつもりだったという。
「祖父と、おじがピッチャーをやっていたんですよ。2人とも身長が186~188cmくらいあったらしくて。それで、2人とも全国大会には行けなかったけど、惜しいところまで行ったという話は聞いていた。だから、僕にも野球をやらせてみようという話があったんですけど、それに反発して(笑)、小学校4年からサッカーを始めました。6年生のときは受験勉強で少し休んだけど、中学に入ったら再開しようと思っていたんです。

それで、僕が入った中学は、最初の中間テストで成績が下位のほうだったら、クラブに入れないという決まりがあったので、まずはがんばりました。そのテストが終わって……暑い日だったので、誰もいない学校のプールに入って、勝手に水浴びをしていた。そうしたら、高校3年の先輩に見つかっちゃって。『お前、明日から水泳部な』と言われてしまったんです。中1が高3の先輩にゃ逆らえないでしょ? 結局、そのまま水泳部に入ることになりました。

もともと、水泳が強い学校だったんです。だから、その年も入部する生徒は多かったんですけど、僕は当時、たぶんまだ75mくらいしか泳げなかった。他の新入部員たちは、小学生時代にスイミングクラブとかに入っていた連中だったから、最初はかなり差をつけられていました。それなのに、いきなり1ランク上の競泳の大会、しかも個人メドレーに出場させられて。当然、大差をつけられて最下位です。ビリ2から、80m近くも離されていた。そういうとき、どうなるかと言うと、僕がゴールするまで、ずっと拍手を浴びるんです。これは屈辱でした。ただ、この経験で、完全に火がつきまして(笑)、中3のころには競泳で、中国地区で2位、広島県では1位を獲れるまでになったんです。

ただ、これは当時の監督が上手かった。僕のそういう性格を見抜いたうえで、わざと焚きつけたんですよ。この方の情熱というのは、凄まじかったですね。夏休み期間でも、1日も休まずに来られていた。こっちも休めないし、あまりに練習メニューが厳しいから、監督のことを当時は皆、恨んでたんじゃないかな。でも、監督が目指していたのは、あくまで全国優勝であって、そのためのカリキュラムが組まれていたわけです。いまとなっては、この監督と出会えたことに感謝していますし、自分は運が良かったとも思いますね」

中学で競泳、そして水球と出会った吉川少年は、高校生になると、水球の最年少日本代表に選ばれるまでに成長していくのだった。

生誕10,000日
上京から約10年
音楽を追求する日々

生誕10,000日。27歳から、28歳にかけての時期。上京からは早くも、10年近い年月が経とうとしていた。

18歳にして、映画の主演とレコードで同時デビュー。映画は三部作となり、シングル曲も立て続けにヒットした。
「でも、自分の思いとは違っていた。『これは、進みたい道じゃない』と思って、自分を売り出してくれた、当時の事務所の社長に直談判したんです。『これからは、自分の足で歩きたい』と。そうしたら社長が理解を示してくれて、子会社という形での独立をさせてもらうことができた。だから、最初の事務所には4年くらいしかいなかったんです。

22歳で独立して、そのころに始めたのがCOMPLEX。これが2年。27~28歳というと、その少し後でしょう。上京してから時間は経っていたけど、この世界って、周りにもスゴい奴らがたくさんいて、飽きないんですよ。常に刺激があった。そんな中で、自分で選んだ新しい道も、良い意味で少し落ち着いてきて。『曲作りをしっかりやっていこう』と、真っ向から取り組んでいた時期だと思います」

シングル曲で言うと「せつなさを殺せない」「ジェラシーを微笑みにかえて」「KISSに撃たれて眠りたい」と、COMPLEX後の代表的なヒットナンバーが並んでいる。アルバムでは『Shyness Overdrive』(92年9月リリース)がオリコンチャートで1位を獲得。発売当時のコメントでは「ようやく思い描いていたことの表現が可能になった」と発言していた。
「コンピューターを使い始めたり、とかね。当時、いまとは比べものにならないような小さなモニターで、しかもモノクロ画面で。それで値段は90万円くらいだったかなぁ? そんな記憶がありますね」

生誕15,000日
「不惑」に惑いながらも
力強く前進

生誕15,000日。40~41歳。40歳といえば、孔子の『論語』で言うところの「不惑」の年である。
「40歳……20年前か。まだまだ『惑いまくり』だったんじゃないかな(笑)」

まずは30代のときの、個人事務所設立に触れなければなるまい。
「33歳のときに独立して、会社を立ち上げたんです。それがいまの事務所ですね。当時は本当にいろいろとあって、若いスタッフを連れて、イチから再スタートすることになった。いや、借金を抱えていたから、マイナスからスタートだったのか。意地もあるし、責任もあるので、地下スタジオにソファーを入れて、『会社が黒字になるまで、俺は帰らない』と、社員たちに宣言したんですよ。そこから利益が出るのに7~8年かかったから、それが40歳くらいでしょう。その後も4年くらいはスタジオで暮らしていた。そんなに長い間、地下で暮らしているとロクなことがないんです。湿度が高いから、肺にカビが生えてしまったり……」

この地下生活時代に、中国史に興味を抱き、多くの関連書籍を読むようになった。
「それまで、見得を切って、ずっと突っ張って生きてきたので、いざ人生の岐路に立たされたときに、相談できるような相手はいなかったんです。

どうすればいいのかと考えて、現実の世界に存在しないのなら、歴史の中の先人たちに学べば良いんじゃないかと。それを突き詰めていくと結局、中国史に行き着きました。現実ではなかなか学べないような、貴重な教え、生き方のヒントがたくさん出てくる。自分自身が必死だったこともあって、読んだことが自身の血肉になっていきました」

吉川にとって、30代は逆風と戦った時代だと言えそうだ。
「でも、あの苦しい時期があって良かったと、いまは思います。もし、ずっと順風満帆な人生を歩んでいたら、いまもこうしてリングの上で戦える状態ではなかったかもしれない。そんなに手に入れてこなかったからこそ、ずっと『渇いた』ままでいられたんでしょうね」

独立してからしばらくして、10年以上にもわたって「封印」していた俳優活動も、いよいよ再開した。現在へと連なる、歌手・俳優の両面での活動が本格的に始まったのだ。40代の吉川は、それまで以上に幅広いステージで、多彩な表情を見せていく。

生誕20,000日
自分の「やるべきこと」と
向き合っていく

生誕20,000日。54~55歳。世界をコロナ禍が襲い、吉川自身も、ここ数年で心臓や目の手術を行った。そんな中で迎えたデビュー40周年(2024年)、そして還暦(2025年)である。
「あちこち手術して、ちょっと改造人間というか、サイボーグ化し始めている。あとはやっぱり、周りでいろいろな人が、どんどん旅立ってしまうという現実もある。若いころは自分の還暦なんて想像もつかなくて、小さなめし屋でもやれていれば良いかな、なんて漠然と思っていたけど、まだまだやりたいこと、やらなくちゃいけないことが、いっぱいありますからね。それに、70歳や80歳になってもステージに立っている人もたくさんいるし」

近年の合言葉は「笑顔の再会」である。コンサート会場を訪れた多くのファンたちと、必ず最後に「笑顔の再会」を約束する。
「それに尽きるんですよ、結局。エンターテイナーとして、お客さんたちが束の間でも、嫌なことを忘れられる時間を作ってあげたい。『俺の音楽を聴け!』みたいなエゴはもうなくて(笑)、『みんなで一緒に楽しもうよ』という気持ちだけですね。

ただ、そのためには、自分自身はもちろんだけど、ファンのみんなにも、ずっと健康でいてもらわなくちゃいけない(笑)。最近は、そのことも強調していますよ。お互いが守ってこその『約束』ですから」

過去のさまざまな経験の中には、多くの「失敗」もあると、常に吉川は語る。しかし、その「失敗」の中にこそ、後の自分を形成するのに重要だった「学び」が、多く含まれていたという。
「どの経験がなくても、いまの自分にはなっていないでしょうね。これを『遠回り』だと感じる人もいるんでしょうけど、仮にそうだったとしても、これまでの『かさねた時間』は間違いなく、自分の軸になっているんですよね。だから、今後もどんな経験をかさねられるか楽しみだし、そのときに失敗を恐れない自分であり続けたいと思っています。そういう自分ならこの年齢でも、まだまだ成長していけるんじゃないかな。自分を信じて、かさねた時間はきっと、裏切りませんから」