ULOS Questions

生きるを問い続ける。

夢はずっと見なくとも、ある日急にあらわれることもある?

岩渕 貞哉|『美術手帖』総編集長

1948年に創刊された、日本を代表する美術専門誌『美術手帖』。その総編集長として、現代のアートシーンに幅広く携わるのが岩渕貞哉さんです。意外?にも、横浜郊外のニュータウンで、アートとは無縁の幼少期を過ごしたといいます。前後編の前編は、岩渕さんが美術に携わるまでに歩んだ「道」、そこに広がっていた風景を問います。

Profile
岩渕 貞哉 (いわぶち ていや)|『美術手帖』総編集長

1999年慶応義塾大学経済学部卒業。2002年より『美術手帖』編集部に携わり、2008年より編集長を務める。2017年、ウェブ版「美術手帖」を立ち上げる。公募展の審査員やトークイベントの出演など、幅広い場面で現代のアートシーンに関わる。

ニュータウンで生まれ育ち、ジャンプに熱中した「ふつう」の少年時代

――ご出身は神奈川の横浜とのことですが、どんなお子さんだったか、またどんな環境で育ったのでしょうか。

岩渕:横浜の栄区というところで生まれ育ったのですが、山を切り開いて宅地開発した「ニュータウン」でした。最寄りの駅まで歩いて40~50分かかるようなところで自然は多かったです。父は会社員で母は専業主婦で、同級生たちもサラリーマン家庭がほとんどだったと思います。

――ちなみに子どもの頃のヒーローとか、熱中していたものは?

岩渕:同時代の男子と一緒で『週刊少年ジャンプ』は夢中になって読んでいました。『キン肉マン』『キャプテン翼』『ドラゴンボール』などが連載していてジャンプ黄金期でしたね。毎週発売日を待ちわびて本屋さんに足を運んでいました。

――たしかに「ふつう」といいますか、家にめっちゃレコード置いてあったとか、美術館に行きまくっていたとか、そういう家庭・育ちではなかったんですね。

岩渕:ごく普通だったと思います。母も手芸が好きでパッチワーク・キルトをしていました。アートとは無縁でしたね。部活は中高とバレーボール部でしたし、どちらかというと体育会系でした。ただ、本を読むのは好きで学校の図書館には入り浸っていましたね。

岩渕 貞哉

描けはしない。でも「あいだに立つ」ことはできるかもしれない。

――幼少期の話だけ聞くと、それがのちに『美術手帖』の総編集長になるというのがあまり結びつかないんですが、美術に傾倒していくきっかけってなんだったんですか?

岩渕:大学に入って、音楽や映画、小説などが好きな友人と出会って、一緒に夜な夜な話をしたり、その影響で現代思想にふれたりしていました。
その頃、ちょうど奈良美智さんや村上隆さんがアートシーンに登場してきて、とくに村上さんは、音楽や漫画、アニメといったサブカルチャーとの接続を図ったり、現代思想との結びつきで語られたり、「美術」がそれまで自分が通ってきたもの、好きだったものとつながって、関心を持つようになりました。

――その結果として、大学を出られて即就職ではなく、美術を学び直すという道を選ばれた。

岩渕:大学に熱心に通っているタイプではなかったので、就職活動についても自分の関心をうまく見つけられず、このまま流されて就職というのも気が進まずに迷っていたところ、よく見ていた雑誌に「インターメディウム研究所(IMI)」という大阪にある2年制の学校を見つけたんです。大学や専門学校を出た人が学べるアートスクールでした。

――そこに通ってみて、何か感じたこととか、見えてきたこととかはありましたか?

岩渕:周りの学生には、美大出身の人も多かったんです。大学時代は美術系の人と接点を持つことがなかったので、ものづくりをする人たちに囲まれて刺激を受けました。講師も、第一線で活躍されているアーティストや批評家が多くいました。そういった方々と交流しながら、自分はどうアートに関われるかなと考えるなかで、特別講師でこられていたカルチャー系の雑誌の編集長の方々の話を聞いて、編集という仕事であれば自分も関われるかもしれないと、アーティストと社会のあいだをつなぐ仕事をしてみたいと思ったんです。

岩渕 貞哉

――それで、出版社の道を志すようになったんですね。

岩渕:90年代末から2000年代初頭の当時は、就職氷河期のまっただなかで出版社も採用枠を減らしていて、カルチャー系の小規模なところは経験者採用が多くて……。IMIを修了後に横浜の実家に戻ってきたのですが、しばらくはアルバイト生活でしたね。

それは奇遇だったのか、それとも必然か。

――それが結果的に、どうして美術出版社に入ることになったんですか?

岩渕:そろそろ1年も経とうしていて、このままじゃまずいかもと焦りだした頃、たまたまコンビニで見つけた就職情報誌に『美術手帖』の求人があったんです。それこそ「経験者優遇」だったんですが、もう、藁をも掴むような気持ちで応募したところ採用してもらいました。

――後から「なんで採ってくれたんですか」って聞いたりしました?

岩渕:いや、怖くて聞けないです(笑)。

岩渕 貞哉

――人には色んな進路の選び方があると思います。野球一筋でずっと頑張って、メジャーリーガーになる方もいれば、岩渕さんのように、転がり続けながら人や物事と出会い、点が線になり、最終的にコンビニで立ち読みしてた求人情報で今の道を切り開く方もいる。人それぞれに生き方を問い続け、それぞれに答えがある、その意義を改めて感じます。

岩渕:そうですかね。でもほんとに運がよかったとしか言えないので、もう一回同じことをしてと言われても怖くてできないですね(笑)。拾ってもらったという気持ちが強かったので、入ったあとは、もう自分にはこの道しかないと思って、がむしゃらに打ち込みました。

幼少期~学生時代に熱中したものが美術というものを介してひとつにつながり、そこで自分ができることを模索した結果、編集者という「道」がひらけた岩渕さん。
では、その道の先にどんな答えが待っていたのか。また現代アートの最前線に携わる彼が考える「美しさ」とはなんなのか。問いは続きます。

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