ULOS Questions

生きるを問い続ける。

本当に美しいものは、一見「美しくない」?

岩渕 貞哉|『美術手帖』総編集長

『美術手帖』総編集長として、現代のアートシーンに幅広く携わる岩渕貞哉さん。今の道に進むまでの経緯を問うた前編に続き、後編では、20年以上にわたりアートシーンを見つめるなかで思う「美しさ」論を問いました。 が、そもそも美に定義を求めることなどあり得るのか、ということが話を進めるなかで分かり始め・・・
Profile
岩渕 貞哉 (いわぶち ていや)|『美術手帖』総編集長

1999年慶応義塾大学経済学部卒業。2002年より『美術手帖』編集部に携わり、2008年より編集長を務める。2017年、ウェブ版「美術手帖」を立ち上げる。公募展の審査員やトークイベントの出演など、幅広い場面で現代のアートシーンに関わる。

「いいね」と思える眼を鍛え続け、「いいね」と思えるものを創り続けた20年

――ようやく編集者としての道を歩み始めることになって、やっぱり駆け出しの頃は辛いこととかしんどいこととかが多いものでしたか?

岩渕:社会人の経験がほとんどないまま、いきなり現場だったので最初はきつかったですね。一方で小さな編集部はだいたい余裕がないので、いきなり仕事を任せてもらえたのは恵まれていたのかもしれません。

――じゃあ結構「夢中」になって打ち込んでたという感じだったんですね。

岩渕:学生時代に自分が好きだった人と仕事ができるというのはなにより嬉しかったです。しかも、仕事で一緒になったほうがより深いコミュニケーションができます。なので、若手ということもあって、夢中で貪欲に記事を担当していました。

――そういった「プレイヤー」の仕事って、総編集長の今でもできてるものなんですか?

岩渕:しばらく編集の現場からは離れていたのですが、2022年から雑誌の編集長も兼任することになり、いまは特集を含めて自分でも記事を担当しています。総編集長は、美術手帖の雑誌、ウェブ、制作や新規事業開発なども含めた事業の責任者なのですが、ずっとその立場だけだとまずいかもと思い始めまして。

――その意図・意義というのは?

岩渕:入ってくる情報と気づきの質が違うのかもしれません。もちろん、展覧会のオープニングイベントなどで多くの人と会って話をするのですが、それと自分で記事をつくるなかで意見交換をしたり、考えたりすることはその深さが異なるように思います。自分にとっては、「編集者」として取材現場の空気を肌で感じたり、記事をつくるなかでの試行錯誤が、事業へのフィードバックにも欠かせないと改めて感じています。頭の切り替えには少し苦労しますが(笑)。

岩渕 貞哉

「価値」を決めるのは、言説か、それとも市場か。

――美術の世界は、変わりましたか。この20年間で。

岩渕:変わったと思います。編集部に入った2002年前後は、ちょうど2001年に現代アートの国際展である「横浜トリエンナーレ」が始まり、奈良美智さんと村上隆さんがともに初めて美術館で個展を開いたり、2003年に六本木ヒルズに現代アートを中心としたプログラムの「森美術館」が開館したり。これまであまりアートに馴染みがなかった人もアートへの関心が高まり、日本での現代アートシーンが花開いた時期でした。
その次は、アート作品を「買う」、そして飾って楽しむことがかっこいいこと、ある種のステータスになったことが大きな変化でした。それまでは、アートコレクションはあくまでも個人の嗜好の域を出ず、その社会的な意義が広く認められることはなかったように思います。アート業界もとくに商取引などはクローズドな印象で、入りにくいものだったと思います。僕は経済学部卒ということもあってか、マーケットに多少関心があったので、メディアを通じて情報をオープンにしていきたいと考えていました。

――勝手な憶測なのかもしれませんが、アートを投資・投機対象として見なすことを、美術界の人はどことなく警戒しているのではないかと思っていました。

岩渕:過熱しすぎるのはともかくとして、価値をはかるひとつの指標として価格や流通も考えています。作品が流通することで、アーティストも生活の糧を得ているわけですし、現代アートでは作品の規模やクオリティがもとめられることもあるので、その点では、産業として大きくなっていくことが、後世に残る作品が生まれる土壌にもなると考えています。

岩渕 貞哉

――じゃあ基本的には良い流れというか、風通しが良くなりつつあるということなんですね。逆に変わらないこと、この時代にこそ美術界に「問い直したい」ことはありますか?

岩渕:そうした市場の力学が入ってくるのは透明性のうえでも大事だと思います。一方で作品の価値はアカデミズムやインスティチューションでの評価も大事になってきます。「一部の専門家による権威的ではあるものの安定した評価がなされるアカデミズム」と「流動的ではあるものの風通しのよい評価がなされるマーケット」、この双方をいかに融合していけるかが、今後問われていくんだと思います。

いま、本当に美しいものは、一見「よくわからない」もの?

――美術の世界において“不朽の名作”みたいな、時代が変われど良いとされる作品って存在し得るものなんですか?

岩渕:作品というのは、その時代時代で評価や解釈が変わっていくものだと思います。もちろん当時評価されていたという事実が揺らぐことはないものの、評価する価値観は時代と共に変わっていきますので、それまでの作家・作品の価値の「見直し」というのはつねに起こっていきます。

――そうすると美しさの定義っていうのもまた流動的というか、定義することがなかなか難しいですよね。

岩渕:そもそも現代アートの世界では、「美しいということ」に価値が置かれているのかも疑問です。というのも、美しさというものが、いままでの物差しに当てはめることによってそれを美しいと思えるのだとすると、つまり、それは新しくない。
一見すると、自分の価値観とはズレてしまう「美しくない」と思ってしまうもの、これまでの自分の理解を超えていくようなもの。そこには「なにか」がある。もちろん、構図や色の配列といった造形的なセオリーはあります。それを踏まえたうえで、ちょっと気持ち悪いとか違和感があるとか。いま「美しい」を考えるならば、それをもって「美しい」と言えるのかもしれません。

――ともすれば真の「美しさ」というのは、言語化できない、と。

岩渕:自分も言葉を生業としているのですが、言語というのは感覚や知覚よりも遅れてくるものだと思います。だとすると、すぐに言語化できるものは「美しい」とは言えない?

――我々も、貴重なお話を記事にするうえで、言語化する功罪について、改めて考えさせられます。

岩渕:そうですよね。僕らもメディアという立場で美術に関わるなかで、安易な言語化には飛びつかず、つねに新しい語り口を生み出していかないとと悪戦苦闘しています。

――表象的なことだけではなく、なぜその表現をしたのか、作者はどのような想いを込めたのか、そういったことに目を向けるのが重要だということが、一連のお話のなかで少し分かった気がします。

岩渕:表現が生み出されてくる内在的な力を理解することが重要なんだと思います。その力の成り立ちはそれぞれなので、一見しただけではその価値を見定めることが難しいのですが、そこにアートの魅力もある。その人の、そのときにおける、その人なりの思考が目に見えるかたちとなって凝縮されたものが、「美しい」ものと言えるのではないでしょうか。

岩渕 貞哉
ウル・オス