こんにちは、ランニングサポーターの久保です。
昨年までと違い、最近は頻繁にレースが開催されるようになってきました。またこの時期は多くの都市型市民マラソンも行われるので、心待ちにしている方もいることでしょう。
レースに向けてトレーニングが順調に進んでいるランナー、徐々に体調がよくなってきているランナー、逆にあまり調子が上がらないランナーや久々のレースを前に緊張しているランナーなど、それぞれ状況は違うと思います。
特にここ数年マラソンレースから遠ざかっていたランナーからすれば、練習やレースの感覚を体と脳が忘れかけているかもしれません。
そこで、レースを目の前に控えているときの心構え的なことを述べたいと思います。これは私自身が市民ランナーとして走るようになってから、とても大切にしている事柄でもあります。
それは、レースに出場するかしないか迷ったときの判断基準は、「このレースを走って『走る喜び』を感じることができるかどうか」だということです。
私が実業団のランナーとして走っていたとき、走ることが何ひとつ楽しくありませんでした。もっと言ってしまえば、大嫌いで仕方ありませんでした。早くこの苦しみから解放されたいといつも思っていて、「走る喜び」なんて感じたことはありませんでした。
でも今は違います。
今年1年、脚が痛くて思うように走ることができませんでしたが、そんな状況でも走ることの喜びを感じています。それは速く走れたとか、記録が出たとかそういうことではありません。怪我をしたけれど、例えゆっくりであっても体を動かし走れることが嬉しいのです。
もし今私がレースに出場するとするならば、状態が悪くなることを無視しながら焦って練習し、不安と嫌悪感の中レースに臨むといったことはしないでしょう。仮にゆっくりしたペースであっても、体の感覚がよかったり上手な体の使い方ができたら、必ず状態は上がっていきます。次からの練習が楽しくなるに違いありません。この継続こそ、走ることで喜びを感じながら体力と走力を同時に上げていくことに繋がるのではないかと思っています。
もちろん速く走ることを心から捨てたわけではありません。じっくり構えて時期が来たら再チャレンジする気持ちでいます。大会等は走りを継続することや走る心を繋いでいくことのキッカケに過ぎません。遠回りはしても、いろんな思いをそのまま抱えて走るからこそランナーとしての深みが増していくのだと思います。しんどい経験は人に優しさを与え、人の気持ちに寄り添うこともできます。どんなことがあろうとも、喜びを感じられるような走りを!
ちなみにあれだけ走ることがイヤだった現役時代、「走る喜び」を感じることはなかったと述べましたが、実は1回だけ「走る喜び」を感じた瞬間があります。
それは現役最後のフルマラソンを走ったときのこと。
私は当時怪我をしていて、完走できるかどうかもわからない状態でスタートラインに立ちました。号砲と共に走り出しましたが、痛みが出ないようなるべくペースを落とし完走することだけを目指しました。私のために最善の治療をしてくれた鍼灸師の先生方、ラストランだと知り沿道で並走してくれた知人、数年間支え続けてくれたチームスタッフなどのこと…それらが頭をよぎる度に、無事走り切ることが恩返しという思いで…。
エネルギーが尽き果て、ヘロヘロになりながらもなんとかゴールに辿り着くことができたとき、私は初めてレース中泣きました。そこには私を支えてくれたすべてのことに対して、喜びという名の感謝があったのです。