第6回
ベネチアの落とし物
誰にも忘れられない物があるのではないでしょうか。失うことでなぜか、より輝きを増すこともあるようです。
もう一度かぶりなおせば微笑みのように
煌めくヴェネツィアの川
高田ほのか
わが遍歴
自宅マンションの廊下に何かが落ちている。瞬間、(自分のものではないか?)と疑ってしまう。それほど、わたしは落とし物が多い。
常にダブルやトリプルで落としているのだが、直近の落とし物で一番気にかかっているのは、メルカリで購入したFURLAの黒手袋(右手)だ。もしかしたら道路の隅に、はたまた電車のホームに落ちているその姿を思うと胸が痛む。わたしの手を離れたそれは、しかしこの世界のどこかに必ず存在しているのだ……ごめん、ごめんよ。
落としたときのダメージをカバーするために、初めから同じ物を2つ購入することもある。イヤリングや靴下など2個ワンセットのものは、片方なくしてももうワンセットとセットで(わかりづらい)使えるのでオススメです(だれに?)。
わたしの落とし物遍歴には王道の傘をはじめ、ショックの大きな財布、スマホ、定期入れなど、小学生時代から遡ると各三つずつはなくしているだろうか。
そのなかでも〝忘れがたい落とし物〟の常にトップに君臨しているのが、ブルーのクロッシェ帽。学生時代に梅田のHEP FIVEで一目ぼれしたものだ。
社会人になりたての頃、友人とベネチア旅行で手漕ぎのゴンドラに乗った。そこは、観光客で賑わっている表通りとは別世界だった。船尾に立ったゴンドリエーレのおじさんが1本の櫂(かい)を器用に操り、ゴンドラは深いグリーンをたたえる細い運河を迷路のようにすすむ。その両側には石造りの家々が軒を連ね、ロープに干された洗濯物や、バルコニーには色とりどりの花が揺れていた。
ゴンドラがアーチ状の小さな橋をくぐったとき、突如、強い風が吹いた。わたしがかぶっていたクロッシェ帽は、ああ……と思う暇もなく彼方へ。ゴンドリエーレのイタリア人おじさんはわたしの叫びを無視しているのか聞こえないのか全く無反応で、陽気に陽気なカンツォーネを歌い続ける。帽子はおじさんの歌に乗り、川に流され、ゴンドラからみるみる遠ざかり、やがて見えなくなった。
今もアルバムを開くたび、このあと起こることも知らずに帽子に手をかけピースしているわたしの平和そうな顔よ、と思う。
先日、妹にアルバムを見せながらこのエピソードを話すと、海外に行ったことのない彼女は、「そんな絵に描いたような美しいネタがあるなんていいやん」と真顔で言った。――そんな見方もあるのか! 瞬間、あの日の出来事が輝きを帯びた。
コロナ禍以降、海外旅行が心理的にも遠くなってしまったわたしは、夜な夜なあの日の出来事を追憶する。クロッシェ帽は、いまもベネチアの運河を旅しているだろうか。
常にダブルやトリプルで落としているのだが、直近の落とし物で一番気にかかっているのは、メルカリで購入したFURLAの黒手袋(右手)だ。もしかしたら道路の隅に、はたまた電車のホームに落ちているその姿を思うと胸が痛む。わたしの手を離れたそれは、しかしこの世界のどこかに必ず存在しているのだ……ごめん、ごめんよ。
落としたときのダメージをカバーするために、初めから同じ物を2つ購入することもある。イヤリングや靴下など2個ワンセットのものは、片方なくしてももうワンセットとセットで(わかりづらい)使えるのでオススメです(だれに?)。
わたしの落とし物遍歴には王道の傘をはじめ、ショックの大きな財布、スマホ、定期入れなど、小学生時代から遡ると各三つずつはなくしているだろうか。
そのなかでも〝忘れがたい落とし物〟の常にトップに君臨しているのが、ブルーのクロッシェ帽。学生時代に梅田のHEP FIVEで一目ぼれしたものだ。
社会人になりたての頃、友人とベネチア旅行で手漕ぎのゴンドラに乗った。そこは、観光客で賑わっている表通りとは別世界だった。船尾に立ったゴンドリエーレのおじさんが1本の櫂(かい)を器用に操り、ゴンドラは深いグリーンをたたえる細い運河を迷路のようにすすむ。その両側には石造りの家々が軒を連ね、ロープに干された洗濯物や、バルコニーには色とりどりの花が揺れていた。
ゴンドラがアーチ状の小さな橋をくぐったとき、突如、強い風が吹いた。わたしがかぶっていたクロッシェ帽は、ああ……と思う暇もなく彼方へ。ゴンドリエーレのイタリア人おじさんはわたしの叫びを無視しているのか聞こえないのか全く無反応で、陽気に陽気なカンツォーネを歌い続ける。帽子はおじさんの歌に乗り、川に流され、ゴンドラからみるみる遠ざかり、やがて見えなくなった。
今もアルバムを開くたび、このあと起こることも知らずに帽子に手をかけピースしているわたしの平和そうな顔よ、と思う。
先日、妹にアルバムを見せながらこのエピソードを話すと、海外に行ったことのない彼女は、「そんな絵に描いたような美しいネタがあるなんていいやん」と真顔で言った。――そんな見方もあるのか! 瞬間、あの日の出来事が輝きを帯びた。
コロナ禍以降、海外旅行が心理的にも遠くなってしまったわたしは、夜な夜なあの日の出来事を追憶する。クロッシェ帽は、いまもベネチアの運河を旅しているだろうか。

イラスト・小沢真理

高田ほのか(たかだ・ほのか)さん
大阪出身、在住。関西学院大学文学部心理学科卒。2010年より短歌教室「ひつじ」主宰。「未来短歌会」所属。テレビ大阪放送審議会委員。さかい利晶の杜(千利休・与謝野晶子のミュージアム)に短歌パネル常設展示。小学校、大学から企業まで幅広く講演・講義を行い、現在まで短歌の魅力を1万人以上の参加者に伝えている。短歌教室「ひつじ」は、2020年よりオンライン教室を開催。NHK「あさイチ」、関西テレビ「報道ランナー」、女性誌などから取材を受ける。関西を拠点に尽力する社長にインタビューし、その“原点”を「短歌で見つける経営者の心」と題するコラムにしており(産経新聞社)、大阪万博が開催される2025年に100社、100首を完成させ、歌集の出版と展示会を開催予定。著書に『ライナスの毛布』増補新装版(書肆侃侃房)。監修書に『基礎からわかるはじめての短歌』(メイツ出版)。