結核

結核研究の歴史

多剤耐性結核への挑戦

大塚製薬の創薬研究は1971年に徳島の地で、わずか14人の研究者により始まりました。最初の研究テーマの一つとして選ばれたのが、「結核」です。

その当時、結核の新薬開発は、収益面での将来性がないと見なされており、業界の潮流とは真逆の取り組みでした。なぜなら結核は、1964年に発見された革新的な新薬「リファンピシン」によって治療可能な病気になっていたからです。結核薬の開発に取り組んでいた世界中の研究者や研究機関の多くが、開発を中止、あるいは高い利益が見込める他の領域に移行していたそんな時代でした。

この会議から様々なアイディアが生まれた

このとき、大塚製薬が他の製薬会社と同じ判断をしていたら、若い研究者たちも結核の治療薬の開発をあきらめていたでしょう。結核分野では新参者だった大塚の研究者たちには、この領域における実績はありません。しかし、アジア各国で多くの患者さんが苦しんでいる状況を目の当たりにし、1つの新薬だけでは、毎年100万人以上もの人が命を落とす結核の治療には十分ではないと考えたのです。

しかし、いざ研究が始まっても、簡単に新しい抗結核薬は見つかりませんでした。安全かつ有効な薬を開発しようとしても、なかなか上手くいかない。若い研究者たちにとって、研究は試行錯誤の繰り返しでした。

  • WHOレポート
当時の実験風景

結核菌は生命力の高い、しぶとい菌のため、結核を発症した患者さんは、半年から1年にわたり複数の薬を服用し続ける必要があります。多剤耐性結核(MDR-TB)の治療は、より長期化し、2倍の時間がかかることもまれではありません。

「これだけ強力な結核菌と闘うためには、まったく別の方法が必要だ。」大塚製薬の研究チームはそう考えました。 従来の薬にほとんど効果がないのであれば、有効かつきわめて強力な物質を、化学的に修飾して、安全な薬を合成すればよいのではないか ――― この考えは、安全な薬の中から効力の強いものを見つけるという薬剤合成の常識から外れていましたが、常識にとらわれないアプローチが、新しい革新的な抗結核薬の発見につながったのです。

  • 多剤耐性結核 (MDR-TB):リファンピシン、イソニアジドのふたつの抗結核薬に耐性を持つ結核
当時、実験室のあった品質管理棟

大塚製薬は新しい結核の治療薬の研究開発に積極的に取り組んでいます。これまでの継続した研究開発の結果として、エイズと結核研究の支援団体であるTreatment Action Groupの発行したTAGレポート2017(PDF:1.8MB)では、大塚製薬は結核分野での研究開発に最も投資を行なっている企業と位置づけられました。

一方で、結核に挑むには、民間企業、政府、NGO、医療従事者、支援団体、ステークホルダーなどとの連携が欠かせません。

大塚製薬は、世界中の多くのパートナーとともに結核の撲滅のために活動を行っています。その活動は1970年代の初めからはじまり、長い道のりを歩んできましたが、その挑戦はまだ始まったばかりなのです。

結核治療の新たな未来を拓く

新薬や診断法、そして患者さんへの社会的支援プログラムなどにおいて、結核治療の「イノベーション」が強く求められています。現在使われている結核の治療薬は、すでに発見から半世紀近くが経過しています。時代の流れとともに、結核を取り巻く状況も劇的な変貌を遂げて来ました。

結核の克服には、医療上、健康上の課題が山積しており、まさしくアンメットニーズの高い疾患です。この未だ満たされていない医療ニーズこそが大塚製薬を前に進ませる原動力です。

結核と共に生きる

世界中の誰もが、結核にかかる可能性があります。結核は、アフリカの平原からペルーの山地、欧州や北米の都市に至るまで、あらゆる地域に存在する病気です。ただし不治の病ではありません。近年においても毎年何百万もの人々が亡くなっていますが、その一方で、結核と全力で闘い克服した人々がいます。